利休百首かるた
いよいよ今年もお稽古が始まります。 お稽古始めに利休百首かるたをやることになっているので少し読み方の練習を、と思い広げてみました。
最初のほうの歌は研究会でも良く耳にしますが、あとはなかなか詠む機会がないので、覚えるために何年か前にかるたを作ってもらいました。
門前の小僧・・ではないですが、初心者でも何度も言ったり聞いたりしていると覚えてしまうのでは、というのがねらいです。
さあ、今年もがんばりましょう!
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いよいよ今年もお稽古が始まります。 お稽古始めに利休百首かるたをやることになっているので少し読み方の練習を、と思い広げてみました。
最初のほうの歌は研究会でも良く耳にしますが、あとはなかなか詠む機会がないので、覚えるために何年か前にかるたを作ってもらいました。
門前の小僧・・ではないですが、初心者でも何度も言ったり聞いたりしていると覚えてしまうのでは、というのがねらいです。
さあ、今年もがんばりましょう!
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新年明けましておめでとうございます。
昨年同様、今年もさわやかにお正月を迎えることができました。
相変わらずお茶のほうは忙しく過ごしてしまいましたが、今年は仕事に追われるのではなく、仕事を追いかけていけるような精神的余裕をもってこなしていきたいと思います。
まだまだ、仕事をしていられることに感謝しながら一年を過ごしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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昔、中国では奇数を縁起のよい陽の数として、一番大きな9の数字が重なることから九月九日を「重陽」の節句としました。
菊酒を飲んで邪気を払うなどの行事が、平安時代に日本に入ってきて宮中行事となりました。
その中に「菊の被せ綿」と言う習慣があって、蕾の菊の花の上に綿をかぶせ、一晩おくと、香りと夜露が綿に沁みこみ、それで宮中の女官たちが身体を拭ったとのこと。
和菓子の「被せ綿」はピンクの菊の花に真っ白い綿をたっぷり乗せたモチーフです。
邪気を払ったり、健康で長寿でいられるように願ってこのような生活習慣ができたそうです。
菊酒を飲んで7百年(一説では八百年)もの長寿を得た菊慈童の能も有名ですし、戦国武将の楠木正成の家紋は後醍醐天皇から賜った菊水です。
この季節、とても話題性の多い菊の花が主役です。
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この項は茶道三年の中に「三越百貨店」の創始者高橋箒庵が書いています。
昭和十二年、熱海桃山の別荘「小雨庵」にて初陣小手調べの茶会をしている時に、大御所の益田鈍翁が聞き付けて、突然小田原より駆けつけてきたそうです。
耳庵は不意打ちに大慌てで対応し、初陣どころではなくなってしまったが、これがきっかけで 敷地内に「十国庵」という三畳の小間を造り、お茶会を披きました。
高橋箒庵はじめ、田中親実、仰木魯堂夫妻などが出席、床には鈍翁の初陣の茶会の不意打ちに対する謝状か掛けられた。 懐石料理は庵主の令夫人が支度し耳庵自らの給仕で、招かれた一同は恐縮の至りだったそうな。
さて、新席十国庵にて庵主が濃茶を練ってもてなした時の様子が記されています。
「左右双手同時に活動する宮本武蔵流で、御商売柄更に停電の跡方もなく練り上げたる服加減は、碗中に一粒の弾丸もなき上出来にて・・・」 とありますが、電力王といわれる耳庵の点前のたとえをこのように表現するのは、機知に富んでいるので本当に感心してしまいます。
このときに使った茶杓が表千家六代の原叟作で銘「ホネカワ」、原叟の作行はあまり薄手ではないが、この茶杓だけは侘び竹で骨と皮ばかりの薄手であったという。
銘のつけかたもおもしろいですね。
この時代の人たちはスケールも大きいですが、限りなく楽しんだ茶の湯が伺いしれます。
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三溪園の中の主だった建築が臨春閣です。
江戸の初期に和歌山に建てられた紀州徳川家の別荘だった巌出御殿を、大阪へ移築し、それを三溪が買取り三溪園の内苑に建てたのでした。
原三溪は臨春閣には電線を引き込まなかったということです。
大正六年、三溪の長男善一郎と男爵團琢磨の四女寿枝子の婚礼披露が、出来上がったばかりの臨春閣で行われたそうです。
披露宴はすべて和ろうそくの明かりで、古式ゆかしく幻想的に執り行なわれました。
お客様を接待する女中はすべて日本髪を結い上げ、雪洞を持って案内したそうです。
もちろん随所に行灯が置かれていたことでしょう。
和ろうそくが揺らめく明かりの中、祝宴の膳を運ぶ日本髪の女性たちが、長い廊下を行き交う様子はえもいわれぬ美しさだったと思います。
臨春閣の長い廊下を歩くと往時が偲ばれます。
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横浜の三溪園の各茶室を見て回った時、蓮華院にたどりつきました。
小間は二畳向切逆勝手中板の席。
以前、春先に八炉のお稽古をしているとき、外流しのお点前をしました。
「向切逆勝手で中板があるお茶室なんてそうそうないですね」などと話しながら、座るときの狙いが「内流し」とは違う「外流し」のお稽古をしました。
そんなことが頭の片隅にあったので、この形態の茶室はとても参考になりました。
点前畳と客畳を1尺4寸幅(多分?)、長さは畳1枚分の板で区切っていますが、二畳の畳でもこの板があることによって広く感じられます。
炉の向こうにある小板は普通2寸なのですが、ここのはもう少し幅があるように見えました。
そして、お点前は板の上に茶筅と棗を斜めに置き、点てた茶碗も板の上に出します。
原三溪が初めて蓮華院でお茶会をしたのは大正六年、五十歳のときだそうです。
きっと、益田鈍翁をはじめ、実業界の面々が集まって清談を交わしたことでしょう。
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耳庵は昭和十年五月、露地の苔がまだ落ち着かないときに、十五歳年上の根津青山翁を正客に招き席披きのお茶事をしたと記しています。
根津青山は実名嘉一郎といい、東部鉄道の創始者です。
初めてする拙いお点前で、必死にもてなした様子が次の文章から伺えます。
「等にて甚だ貧弱なる茶を呈した、点前は自分でしたと思ふが、左の手を出したか右の手を出したかさっぱり覚えぬ、初心者に限りサゾ大きく構えて茶をした事かと思へば今更汗顔の至りである」
なんだか目に浮かぶようです。
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耳庵こと松永安左エ門は明治八年に長崎に生まれ、電力関係事業に係わり財をなした人です。
六十歳からお茶を始めたことから、論語の「六十にして耳順う」に因み、耳庵という号にしたということです。
若い頃、福沢諭吉の養子である福沢桃介と知り合い、晩年まで交流が続いたそうです。
埼玉県の柳瀬に茶室群を造り、益田鈍翁をはじめとして、多くの政財界の人たちとお茶を通して交流しました。
茶道三年は昭和十年から三年間の茶会や茶事の記録を三冊の本にしたものです。
上巻は昭和九年に招かれた茶事で「余が茶事に、正式に呼ばれたのは諸戸家が嚆矢である」で始まります。
諸戸家は伊勢桑名の資産家でこれを機に何度か耳庵夫婦を招いていますが、この最初の茶事で、耳庵は初めて正客にさせられて、出された茶杓の銘「初桜」と、デビューの自分の心境を重ねて書いています。
茶事をまったく知らなかった耳庵にとって、諸戸家の招待がきっかけになり、その後お茶にのめりこんでいったところがおもしろいですね。
この時はまだ本格的な道具の収集は始まっていませんでしたが、その後、道具屋がトラック一杯の道具を松永邸に届け、それが親しい人の遺品になったことから収集が始まったようです。
そのときのことを「自分は其時から茶事の林に踏み込んで仕舞うた」と記しています。
茶道三年に書かれているものは会記もさることながら、耳庵独特の淡々と書かれた文章が興味深く、また表現がすばらしいと思います。
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半年の節目である6月30日は各地の神社で夏越の大祓えの行事が執り行われました。
人形(ひとがた)を人の代わりにして半年間のけがれなどを祓い清めるのです。
また、茅の輪をくぐる神事も併せて行われ、無病息災を祈るのですが、その時、 百人一首で有名な藤原家隆の「風そよぐ楢の小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」が朗詠され、「水無月の夏越の祓いする人は千歳の命延(のぶ)というなり」という和歌を詠います。
そして、「蘇民将来(そみんしょうらい)、蘇民将来」と唱われるのですが、これは京都の祇園祭りの粽にも「蘇民将来子孫也」書かれているものです。
昔、旅先で一夜の宿を求めた素盞鳴命が、裕福な蘇民将来の兄の家では冷たくされ断わられた。
しかし、貧しいけれど心のやさしい弟の蘇民将来の家では、あたたかいもてなしを受けた。
素盞鳴命はそのお礼として、蘇民将来の子孫には疫病などの厄を免れさせようと約束し、そのしるしとして茅の輪を腰につけさせたのが粽の起こりとされています。
なにげなく見ているちょっとしたものに、いろいろな言い伝えや歴史が裏打ちされているのですね。
昔から連綿と続いている行事は、のちの時代までずっと残していってもらいたいものです。
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今年咲いた蓮の花を観賞しながら、少し調べてみました。
周茂叔(しゅうもしゅく)は宗時代の儒学者で清廉潔白な心を持ち、蓮の花を愛した人。
中国では「四愛図」といって、あと、陶淵明の菊、林和靖の梅、黄山谷の蘭など、それぞれの花を愛し、隠遁生活にあこがれを持っていた人たちがいたそうです。
また、蓮を君子の花、菊を隠逸の花といって特に大切にしたようです。
藤田美術館所蔵の堆黒の香合で、茂叔が池の汀に座って蓮の花を眺めている姿がモチーフになっているものがあり、また、東京国立博物館に国宝の狩野正信筆の「周茂叔愛蓮図」があります。
棗には淡々斎好みの梅月棗があり、一閑張折撓の朱色で全体に老木の梅を、甲には銀で二十日月が描かれていてとても斬新です。
その箱表に林和靖の詩の一説「暗香浮動月黄昏」(あんこうふどうつきこうこん)が書付されています。
花を愛した人たちをモチーフにしたものはまだまだ沢山ありますが、お茶道具にも反映されていて興味深いことです。
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